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日立インダストリアルプロダクツ新卒採用

風力発電機

めざせ、 世界シェアNo.1。 日立100年の歴史を武器に、 新たな市場を切り開く。 めざせ、 世界シェアNo.1。 日立100年の歴史を武器に、 新たな市場を切り開く。

PROLOGUE

モータや発電機、ファン、圧縮機など、日立インダストリアルプロダクツの主力製品となる「回転機」。その歴史は100年以上前の日立創業時までさかのぼり、今では、あらゆる産業にとって欠かせないキープロダクトとなっている。日立の回転機は、いかにして世界の産業を支える存在となったのか。新たな市場に挑戦した「風力発電機プロジェクト」と、設計者の枠を超えてプロジェクトをリードしたひとりのエンジニアの物語。

100年分の実績を組み合わせて、
作ったことのない製品を売り込む。
100年分の実績を 組み合わせて、 作ったことのない製品を 売り込む。

日立製作所(以下、日立)の創業製品、「5馬力誘導モータ」。その歴史は100年を超え、日立はモータや発電機など、「回転機」領域におけるリーディングカンパニーとして、産業や鉄道、家電、自動車など、社会全体の進化をけん引してきた。しかし、現状に満足していては、さらなる成長など見込めない。日立の回転機100年の歴史は、常に社会の課題に目を向け、新たな需要と活躍の場を求めてマーケットを切り開いてきた歴史でもある。その一例が、2002年にスタートした「風力発電機プロジェクト」だ。当時、化石燃料に代わるクリーンエネルギーの需要拡大を見込み、日立の電機システム事業部 発電機システム本部 電動機システム部(現、日立インダストリアルプロダクツ)は、風力発電用の発電機の海外マーケット進出をめざしていた。その足がかりとなったのは、日立と取引関係にあったアメリカの大手総合電機メーカーのA社。A社はそのころ、風車メーカーとして風力発電事業に参入したばかりで、風車を構成するキープロダクトとして信頼できる発電機を探していた。日立は、営業やエンジニアによるプロジェクトチームを立ち上げ、A社に対するプレゼンテーションを開始した。

A社が求めたのは、1,500キロワット(1.5メガワット)級と言われる大型の発電機。しかし、当時の日立の風力発電機のラインアップには100キロワット級の小型風車の実績しかなかった。そこで武器となったのが、日立の回転機100年の歴史。風力発電用ではないものの、同様のサイズのモータなら作ったことがある。水車用の発電機であれば、同様の制御システムで稼働した製品がある。過去のさまざまな実績を組み合わせて、A社の要求に応えうる技術力をアピールした。

このチームに設計者として加わったのが、当時入社11年目、日立の山手工場で回転機の設計をしていた水谷修二(以下、水谷)だった。日立の設計者は伝統的に、設計業務だけでなく、製造や品質保証などの社内メンバーを取りまとめ、顧客やサプライヤーといった社外の関係先との交渉も行うなど、プロジェクトをゴールへと導くプロジェクトマネージャーとしての役割も担う。水谷は振り返る。「このプロジェクト自体が未知の領域への挑戦でした。そして、設計者としてもチャレンジングなものでした。技術的にもコスト的にもバランスの取れた設計が求められ、従来の発電機にはない新しい構造や材料を提案しました」。100年の歴史を超える製品への挑戦が始まった。

社員のイメージ画像 社員のイメージ画像

現場から「絶対に無理」と言われた、前代未聞の受注。 現場から 「絶対に無理」と言われた、 前代未聞の受注。

ライバル会社の存在もあった。日立のほかにも、各国の大手発電機メーカーが、国境を超えて国際的な競争を繰り広げた。もちろん日立も負けるわけにはいかない。2003年にはプロトタイプ機を製作し、A社の要求する性能をクリアした。1,500キロワット級の風力発電機が実際に製作可能であることを示した。しかし、A社はさらに1年間の現地での実証試験を求めてきた。「風力発電機事業の立ち上げには、まだ時間がかかりそうだ」。チーム内にそんな空気が流れた。しかし、事態は急展開を見せる。現地テストの最中に、A社から突然300台もの注文が届いたのだ。予測よりも早いペースで風力発電市場が拡大したため、電力会社が風力発電所の建設を加速させるという。これには水谷も驚いた。「見たこともない金額の注文伝票を受け取ってびっくりしました。と同時に、自分が設計した製品が、それだけ売れたということに感動しましたね」。

とはいえ、工場の生産能力にも限りがある。A社の求める納期は極端に短く、水谷は製造側から強い口調で「絶対にできない」と言われた。「たしかに現場の意見も理解できました。そもそも、まだプロトタイプしか作ったことがないのに、いきなり300台ですからね。このサイズの回転機を300台つくるのは、日立としても初めてだったはずです」。明らかに需要と供給のバランスが崩れていた。うれしい悲鳴ではあるが、現実的に難しい発注であることは明らかだった。しかし、このチャンスを逃すわけにはいかない。新しいマーケットが目の前に広がっているのだ。営業チームはA社側と納期に関する交渉を行い、水谷は工場全体を取りまとめる立場として、製造チームに入り込んで現場を説得して回った。と同時に、部品のサプライヤーなど社外の関係先と交渉を重ね、なんとかして実現できないか、その方法を探った。「当時、工場が減産傾向にあった中で、これだけ大きな取引を簡単に諦めるわけにはいきません。なんとかA社の要望に応えて、最速で生産環境を立ち上げていこうと鼓舞しました。また、一人の設計者としても今までやったことのない風力発電機を世に出していくワクワク感もありましたね」。現場も、その熱意に全力で応えた。驚異的なスピードで、なんと1年以内に注文の300台を出荷し終えた。しかし、ここからが本当の闘いの始まりだった。

社員のイメージ画像 社員のイメージ画像

設計者の枠を超えて、数々のトラブルを乗り越える。 設計者の枠を超えて、 数々のトラブルを 乗り越える。

実際に風車の稼働が始まると、想定外のトラブルが発生した。従来にない発想で、さまざまな技術を組み合わせた製品。操作する側にとっても使ったことのない機械であり、設計上の想定を超える負荷をかけてしまうことも少なくなかった。そうなると機械は故障してしまう。この状況は日立にかぎったものではなく、受注を競ったライバルのB社やC社も同様のトラブルに見舞われていた。A社を通じて、互いのトラブルについて情報交換しあうなど、市場の拡大に業界全体が必死に追いつこうとしていた時期だった。

水谷も対応に追われた。不具合や故障の連絡があれば、フットワーク軽く現地へ飛び、技術的なデータやエビデンスを採集し、実証実験を行うなど、原因究明に奔走した。
「このころは、全米各地を飛び回っていましたね。一人で宿やレンタカーを手配して、-30℃の極寒のカナダの町から、40℃の直射日光が照りつけるテキサスの現場まで、各地の風力発電サイトを移動していました。時には、現地で何人かの作業員を雇って現場監督みたいなこともやりましたね(笑)。そんなことができたのも、自由にやらせてもらえる環境があったからこそ。当時の上司には今でも感謝しています」。

ただし、修理と言っても、発電機は地上70メートルのタワーの上にある。発電機の重さはおよそ8トン。発電機を外して下ろすわけにもいかず、かといって70メートルを超えるクレーンをチャーターするには数千万円の費用がかかると言われた。前例のない機械の修理にもまた、前例はない。水谷は、修理のための工具も独自で開発し、特許まで取得したという。その工具を携えて、タワー内部に据えられた垂直のハシゴを登る。水谷が雇った若い作業員は、山登りためのトレーニングがしたくて、ここでの仕事を選んだという。そんな現場だった。

こうして修理のノウハウが確立されると、次はそれを仕組み化して、アメリカ国内で修理工場のネットワークを構築していった。チームのメンバーも、このような大規模事業でのトラブル対応を仕組み化した経験はなく、現地スタッフとも議論を交わしながら、アフターサービスの体制を作り上げた。そのかいもあって、故障などのトラブルは減っていった。水谷は、このころに委託先の現地修理工場の作業員から言われた言葉が忘れられないという。「日立の発電機は故障率が低いから、修理の仕事が増えなくて商売にならないよ」。作業員の嘆息とともに、日立の発電機は、いよいよその評価を高めていった。

社員のイメージ画像 社員のイメージ画像

世界シェアNo.1と、その先に見えるもの。 世界シェアNo.1と、 その先に見えるもの。

風力発電機事業は、順調に成長曲線を描いていく。そんなある日、A社から思わぬ話が舞い込んだ。「発電機の設計を、売ってほしい」というのだ。いわゆる「ライセンス契約」の打診だった。機器の品質や性能はもちろん、トラブルへの対応が高く評価され、そのノウハウを、A社が建設を計画していた新ベトナム工場でも使わせてほしいという。日立はこの申し出に応じ、A社とのライセンス契約を締結。設計・製造ノウハウを図書化してA社に渡すとともに、A社がベトナム工場を建設している2年の間、A社が雇用したベトナムのエンジニアたちを日立の山手工場で受け入れ、風力発電機の製造ノウハウを教え込んだ。

このライセンス契約の締結によって、日立が設計した風力発電機は、日立とA社によって製造されることとなり、生産台数は飛躍的に増加した。そして、ベトナム工場の稼働開始から2年後、日立が設計した風力発電機は、グローバルの納入台数で世界シェアNo.1を獲得。A社に対する最初のプレゼンテーションから、ちょうど10年目の快挙だった。「自分がデザインした製品が世界一になったというのは、最初のころを思えば想像もつかない結果で、私のキャリアにとっても大きな到達点になりましたね」。水谷が社内を駆け回り、世界を駆け回ってたどり着いた世界一の座だった。結果的に、日立は1万5,000台以上の風力用発電機を納め、世界レベルでの低炭素社会の実現に貢献。その発電能力は、原子力発電所20基以上の発電量に相当するという。

最後に水谷は、風力発電機事業を立ち上げ、アメリカ中を飛び回っていたころを振り返って、こう言う。
「あのころ、私がすごく自由にやらせてもらっていたときの雰囲気と、今、我々が日立製作所から分社して日立インダストリアルプロダクツになった状況は、すごく似ている気がするのですよ。私は『一人称で動く』ということをポリシーにしていましたが、自分が主体性を持って動けば、会社もすばやく意思決定して、新しいチャレンジを後押ししてくれる。もちろん苦しい時期もありましたが、所属部門を超えて事業全体を動かしていくのはとても楽しく、この経験はその後の会社生活での大きな自信につながったと思います」。自ら動き、挑戦するDNAは、回転機100年の歴史とともに、日立製作所から日立インダストリアルプロダクツへと受け継がれていく。

ENGINEER DATA

水谷 修二
水谷 修二

電機システム事業部 企画部 / 1991年入社

工学部 電気工学科卒

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